Cakes 『クリエーターズデスク 』

山形浩生@求道学舎編

山形浩生・後編「デジタルデータか、紙の本か。それが問題だ」

評論家、批評家、大手シンクタンク研究員として幅広く活躍される山形浩生さん。後編は、お仕事について詳しく伺っていきます。山形さんの代表作のひとつ『新教養主義宣言』(河 出文庫)が出版されたのが1999年。そこでは、当時まだ日本で一般にあまり知られていなかった経済学者、ポール・クルーグマンの論文を引き合いに出し、 経済が低迷する日本のリフレ政策の必要性を書かれていました。14年の時を経て実現したアベノミクスに、山形さんは今なにを思うのでしょうか。そして、 「教養」のある日本人は増えたのでしょうか。(構成:崎谷実穂

翻訳する洋書はすべて電子版、でも普段は紙の本

— 山形さんは80年代から翻訳のお仕事をされていますが、インターネットが普及してから仕事の仕方が変化しましたか?

山形 2000年を超えたあたりからでしょうか。それまではパソコンで字を打つことはできても、インターネットが普及していないので、調べ物は資料を別に持って行かないと話にならなかった。

— どんなところでも、パソコンがあれば仕事ができるようになりましたよね。

山形 今はそうですね。原書はデータでもらえますし、資料もほとんどは検索で片がつく。仕事も必ずしも家と会社でやっているわけではありません。年の半分くらいは本業の途上国援助のコンサルティングで海外にいるので、翻訳仕事なんかはホテルの部屋でやっている場合も多い。

— これが翻訳するときの画面ですか。

山形 左に原書、右にワードを開いて翻訳文を書いていきます。これは、一回訳したのを見なおしているところです。普通は原書がPDFでくるので、それをTeXを使って処理してテキストエディタで開いている場合が多いです。

— 翻訳する書籍や論文は、何を基準に選んでいるんですか?

山形 自分が勉強するために翻訳することが多いですね。ポール・クルーグマンの本で最初に訳した『クルーグマン教授の経済入門』(ち くま学芸文庫)も、日本で住専問題が話題になっていた時にそれに関する章を訳して、バブルのあとで企業買収が問題になった時に企業買収の章を訳して……と やっていたら、半分くらいできちゃった。他の本も、気になっていた論文を読むついでに訳してしまおう、というのがだいたいの発端です。

— 山形さんは翻訳のスピードが速いとおうかがいしたのですが、どれくらいのペースで訳されるんですか?

山形 1ページ20分くらいですかね。250ページくらいの本だと、専念すれば1冊10日から2週間くらいで翻訳できると思います。普段は仕事と並行しているので、1ヶ月から1ヶ月半くらいかかります。

— 250ページくらいの洋書を日本語に訳すと何ページくらいになるのでしょうか。

山形 ページ数は似たようなものだと思いますよ。ページ数というか、データ量が同じくらいなんですよね。

— なんとなく、漢字を使う日本語のほうが減るようなイメージがありました。

山形 文字で考えると、英語の“milk”は4文字、日本語の「牛乳」は2文字なので、文字数がだいぶ減りそう な気がしますけど、半角アルファベット1文字はデータで表現すると1バイトですよね。一方、日本語の全角文字は1文字で2バイト。データ量としては同じな んです。実際訳してみると、漢字などで文字数が減ってもデータ量で見れば同じくらいになる感覚があります。

— たしかにそうですね。cakesの連載「新・山形月報!」を見てもわかりますが、山形さんは洋書も含め読書量もすごいですよね。英語圏では電子書籍が普及しているイメージがありますが、最近はKindleなどで読むことも増えましたか?

山形 仕事で新しい本の翻訳を頼まれた時に、Kindle版を購入することはありますが、普段の読書で Kindleはほとんど使いませんね。僕は古いのかもしれないけれど、好きなときにぱっと手にとって読むには、まだ紙のほうが気楽というか、優位性がある と思っています。雑誌なんかは特にそうですね。

— 感覚的な問題なのでしょうか。

山形 たぶんね。僕は、おもしろい記事はビリっとやぶってとっておくんです。そのうちウェブ上でクリップしたほ うが早いということになるんだろうし、慣れの問題だと思います。僕としてはまだ過渡期なんですよ。検索してデータを見つけ出すのと、物理的に「なんとな く、このあたりに置いた」って本を手に取るのと、どちらが早いかというと、拮抗するくらいなんじゃないかな。

— 瞬時に検索する、という習慣はまだ身についていない。

山形 そこまではいってないですね。そうなんだよなあ、タブレットを使ってないので、検索するにはコンピュータ を開かなきゃいけないし、その過程がまだ少し面倒。物があるならとりあえず見せろや、という感じです。でも会社の新人なんかを見ると、むしろ電子化された ものの方に慣れていて、報告書を作成するときでも図のデータが貼り付けられないと、とたんにパニックに陥る(笑)。そういうときは、とりあえず空白にして 出力して、あとで図だけ糊で貼ればいいじゃないですか。

— アナログの技ですね(笑)。

山形 そう。でもその子たちは思いつかないみたいで、「ああっ!そんな方法が!すごい!」って感動されるんですよ(笑)。「いや、すごくないから、普通だから」って。それはもう、流派の違いなんだろうと思います。

インフレ目標政策が実現して「ざまーみろ」?

— 山形さんは早くから、コンピュータやウェブの世界にふれてこられましたよね。インターネット的な考え方に親しんでいるのとデバイスの進化に慣れるのとは、また別なのでしょうか。

山形 別の感覚ですね。すべてが一気に電子化できるならデジタルのほうにいくと思うんだけれど、今は両方混在し ている中途半端な状態なので、現状持っている本を全部電子化するほうが、手間に思えてしまう。ああ、でも音楽はよく聞くCDを全部iTunesに落とした ら、もうCDの棚はほとんどさわらなくなったから、そのうち本もそうなるのかな。

— 将来的には全部デジタルに入れ替わると思いますか?

山形 入れ替わりはしないんじゃないかな。かなりの部分が移行するとは思いますけど、アナログなものも細々と残 る気がします。そうなると紙の優位性ってなんだろうなあ。僕の場合は、流し読みという点では紙のほうが優位だと実感しています。電子ブックで5ページおき に飛ばし読みとか、難しいですよね。慣れればそういう技もあるのかもしれませんけど。

— 読むのが速いと、デバイスのスピードが追いつかないというのはあるかもしれませんね。cakesはもう、ウェブの1ページで全部読んでもらうつくりになっています。

山形 cakesはそれが前提になってつくられているから、読みやすいですよね。

— ケイクスではどんな記事をお読みになりますか?

山形 そうだなあ、フェル山さんの人生相談(フェルディナント・ヤマグチ「フェル先生のさわやか人生相談」)は、「あいつ、またいい加減なこと書いてやがる」と思いながら読んでますね(笑)。あとは、finalventさんの書評(「新しい「古典」を読む」)は、ちらちらと読んでます。

— 連載の中でも山形さんの「新・山形月報!」はすごく読まれているんですよ。フォローして、更新された時に通知が来るようにしているユーザーが多いんです。特に、『アベノミクスのゆくえ』を扱った回(第14回)は特に読まれていました。

山形 ふむ、cakesはそういう読者層なんですね。

— かなり早い段階からリフレ派として発言してきた山形さんが、アベノミクスについてどう考えていらっしゃるのかがすごく気になっていたんだと思います。山形さんはインフレ目標論について書かれたポール・クルーグマンの論文「日本がはまった罠」を、1998年に訳され、99年の『新教養主義宣言』河出文庫)の中でご紹介されています。

山形 そうです。もう、15年前になるんですね。

— そしてクルーグマンアベノミクスをどう評価しているかが書かれた『そして日本経済が世界の希望になる』 PHP新書)では、監修と解説をされてます。山形さんがずっと言い続けてきたことが、ようやく実現した感もありますね。

そして日本経済が世界の希望になる (PHP新書)

そして日本経済が世界の希望になる

山形 いやあ、長かったですね。訳したころは、この調整インフレ論は絶対有効だから、2〜3年もしたら当然のよ うに採用されてると思ってたんですよ。でも、そのあとの社会の動きを見ていたら実現すると思えなくなってきて。2010年ころにはもう諦めていましたが、 突然実現してしまった。日本銀行が2%のインフレ目標を導入し、経済学モデルで予測されたように景気が少しずつ回復してる。なんだか、不思議な因果がある ものだなと思っています。

— クルーグマンの「日本がはまった罠」は、ウェブで偶然発見されたんですか?

山形 そう。妙に説得力のある論文があるなあと思って。そのころ僕は、まだマクロ経済なんて全然知らない人間 だったんですよ。大学の教養課程でちょっと授業を受けたくらい。だから、クルーグマンの論文を理解しようとして、マクロ経済のことを勉強していくうちに今 に至ったという感じなんです。経済学がどうしたこうしたという話に足を突っ込むきっかけにもなりました。

— リフレ政策に対して批判していた人もかなりいたと思いますが、正直「ざまーみろ」みたいな気持ちはありますか?(笑)

山形 えーと、多少あります(笑)。特に経済学の主流の人たちがずっと反対していたので、「それ見たことか」と 影でニヤニヤしております。ただ、紹介した論文のとおりになったでしょ、という気持ちはある一方で、それを政治的に受け入れられるように活躍した人は他に いるので、自分が何かしたわけではないという思いもあります。僕はクルーグマンの主張を紹介しただけで、そんなすごいことをしたつもりは……完全にないと いうとウソになっちゃうかな(笑)。ちょっとくらいしかないですよ。

山形さん、日本に教養ある人は増えましたか

— 山形さんのおかげでクルーグマンインフレ目標論を知った人は、本当にたくさんいると思います。

山形 日本に紹介したことだけは、最初と言っていいほど早かったと思いますね。

— また、物の見方や教養の捉え方について、『新教養主義宣言』河出文庫)に影響を受けたという30代、40代の方は多いのではないでしょうか。

山形 ありがたいことですね。

— 1999年の出版時に比べて、山形さんのおっしゃる「教養」に対して意識的な人が増えたという感覚はありますか?

山形 昔より、まともな人が表に出てくるようになったように思います。それこそアベノミクス絡みでも、昔テレビ に出ていたような変なエコノミストは出てこなくなりました(笑)。経済だけでなく、翻訳本も、昔よりだいぶマシなものが増えたのはうれしい。いつか訳し直 してもらわないと困る、というものは減りました。それは訳者のレベルも読者のレベルも上がったからでしょう。

— それはやはり、インターネットが普及したことが関係しているのでしょうか。

山形 それもあると思います。翻訳に関して言えば、昔から別宮貞徳さんという方が本で誤訳の批評をしていましたが、ネットが普及して一般人も文句が言えるようになったのは非常に大きい。世の中に英語ができる人はいくらでもいますからね。そして、僕が「プロジェクト杉田玄白」でやっているように、翻訳文を簡単に公表できるようになった。昔はそれこそ、どこかに投書して取り上げてもらうか、自分で雑誌をつくるかしかなかったんですよ。

— 同人誌的なものとか。

山形 そうそう。昔は海外のSFを翻訳した同人誌がけっこうあったんですよね。その時代に比べれば、発表の場は格段に増えました。

— 教養のある日本人は増えていると思いますか?

山形 そう思います。学問の世界でも、分野によりますが、この先生に逆らったら学会から追放される、みたいな理不尽な慣習が減りつつあるようですね。

— いい研究をしている学者が認めてもらいやすい環境になってきている。

山形 はい。そういう人たちが本も出せるようになってきている。新書ブームで粗造乱造はよくないと言われますが、一方で出るべき人もちゃんと出てきていると思います。チャンスが得られるというのはよいことです。

— マイケル・サンデルの番組や本が話題になる時代ですからね。

山形 そうそう。マイケル・サンデルの本は、「政治哲学ものでも売れるんだ!」と僕も驚きました。意外なところ に需要があるのかもしれません。ただ、もう少しそういった興味を引っ張り続けるにはどうすればいいか、というのは考えどころです。以前、リサ・ランドール という宇宙物理学者の『ワープする宇宙』日本放送協会出版)という本がそこそこ売れて、「おお」と思っていたら、編集者に「この傾向を見ると、美人の物理学者ブームがきてるんじゃないかと思うんですよね」と言われて、ちょ、ちょっと違うんじゃないかなー、と思いました(笑)。

— そこがポイントなのかと(笑)。

山形 たしかに美人だし、それが売り上げに役立ってないとはいわないけどね(笑)。まあいろいろな試みがあるべきで、僕が正しいとも限らないんですけど。でもね、もっと知的好奇心をそそるような方法は、他にあるんじゃないかと思います。

— 本の傾向を見ると、科学的なことや社会変化などに興味がある人は、増えてきているのかもしれませんね。

山形 とか言うと、年寄りには「昔はもっとたくさんの人が岩波文庫を読破していたものだ」とか言われるかもしれないけど(笑)。でも僕は、少しずつおもしろい方向に社会が動いていると思っています。


山形浩生さんが監修・解説を手がけた新刊です。

そして日本経済が世界の希望になる (PHP新書)

そして日本経済が世界の希望になる (PHP新書)
ポール・クルーグマン
監修・解説:山形 浩生
訳:大野 和基

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